SNS上で「グリーンランタン」ことハル・ジョーダン(Hal Jordan)に人種的偏見があるのかという議論が起きるたび、一部のファンが物語全体の文脈から切り離して取り上げる有名な3コマがある。1970年代のDCコミックス『グリーンランタン/グリーンアロー』(Green Lantern / Green Arrow、『グリーンランタン』第2巻#76~87および#89などに掲載)に登場した場面だ。
この場面では、黒人の老人がハルに対し、「青い肌、オレンジ色の肌、紫色の肌」を持つ異星人を助けてきたにもかかわらず、なぜ「黒い肌」の人々には一度も手を差し伸べなかったのかと問いかける。ハルはうつむき、言葉に詰まりながら「私には……答えられない(I… can’t.)」と返す。この数コマを根拠に、ハルが自ら人種差別主義者であることを「認めた」と主張する人は少なくない。

しかし、その号の物語全体や、脚本家デニー・オニール(Denny O’Neil)の創作意図、さらには後に“もう一人のグリーンランタン”ジョン・スチュワートが初登場した『グリーンランタン』(Green Lantern)#87まで本来の文脈に戻してみると、それが最も正確な読み方ではないことが分かる。
『グリーンランタン/グリーンアロー』で本当に問いに付されているのは、ハルが法律や秩序、権威を過度に信頼していることだ。目の前にある分かりやすい「違法行為」には対処できても、合法という形式の下に隠された構造的抑圧を見抜けない。人種問題は、その盲点を最も鋭く突きつける題材だった。ただし重要なのは、作中のハルが「白人の優越性を信じ、黒人を嫌悪する人物」や、相手の肌の色を理由に援助を拒む人物として描かれてはいないことだ。
より正確に言えば、この時点のハルは硬直した制度の盲点に縛られ、そのために偏った判断さえ下してしまう「体制派のヒーロー」だった。この物語で彼に現実と衝突させる意味は、そこから学び、成長させることにある。潜在的な人種差別主義者だったと乱暴に暴露することではない。
これは脚本家オニール自身の説明とも一致する。彼はグリーンランタンを「体制側の男」(establishment guy)として位置づけ、グリーンアローの反体制的な立場と鮮明に対比させた。
▌“黒い肌”という問いが本当に意味していたもの
『グリーンランタン』#76「No Evil Shall Escape My Sight!」の冒頭で、ハルは路上で老人が襲われているところを目撃する。スーパーヒーローとしての直感に従い、すぐさま介入して襲撃を止めるが、「グリーンアロー」ことオリバー・クイーンと衝突し、彼の制止を受けて初めて、自分が守った老人が貧しい住民を住居から追い出そうとしている悪徳家主だったことを知る。

この物語で、ハルは珍しく「間違った側」に立ってしまう。だが、その誤判断は黒人への先入観から生じたものではない。表面的な路上暴力を目にした瞬間、「法執行者」の論理を当てはめ、手を出した側を加害者だと決めつけたことが原因だった。
オニールは後年、この有名な場面について、老人の痛切な問いかけの後、グリーンランタンが悪徳家主を追及する展開へ移ることが重要だと振り返っている。この行動の「前後関係」は、物語だけでなく、後のハルの人物造形を理解するうえでも欠かせない。


黒人の老人による訴えを注意深く読めば、その核心が、ファンの間でしばしば誤解される「黒人への憎悪」ではないことが分かる。老人が問いかけているのは、「なぜ、あなたは現実の問題を一度も『見よう』としなかったのか」ということだ。
老人が挙げる青、オレンジ、紫の三つの「肌の色」は、ハルの華々しい宇宙英雄としての経歴を皮肉に照らし出す。彼は遠い銀河へ飛び、見知らぬ異星人のために正義を求めることができる。それなのに、自分が暮らす街で、劣悪な住宅制度と貧困に覆い隠された構造的抑圧には気づけなかった。
したがって、老人の最後の痛切な問いが問題にしているのは、ハルが「道徳的な関心」を不均衡に配分してきたことだ。人種的優越思想を抱いていると認めさせようとしているわけではない。
同様に、ハルの「I can’t」も、「自分が見過ごしてきたことを弁明できない」と読む方が自然だ。「黒人を差別していることを否定できない」という告白でも、人種偏見を認めた言葉でもない。
仮にこれが人種差別を暴く場面なら、その後には少なくとも、ハルが黒人そのものへの偏見を克服する展開が必要になるはずだ。ところが実際の漫画では、彼が新たな社会的背景を知るや否や、誰が本当の抑圧者なのかを直ちに判断し直している。
▌ハルの盲点は人種偏見ではなく、制度への幻想
これは半世紀後になってキャラクターを「擁護」するための解釈ではない。オニールが『グリーンランタン/グリーンアロー』全体に組み込んだ人物同士の弁証法と、完全に一致する読み方だ。
オニールの回想によると、当時の『グリーンランタン』は売り上げが振るわず、編集部から大幅に作り変える自由を与えられていた。彼の目に映るグリーンランタンは本質的に「銀河間の警官(intergalactic cop)」であり、体制に属する人物だった。
そこでオニールは、ハルを宇宙からアメリカへ引き戻し、人種、薬物、暴力、公害など、それまで彼が本当の意味で理解していなかった問題に直面させた。一方、「グリーンアロー」ことオリバー・クイーンはカウンターカルチャー側の人物に設定された。オリバーにとって、権威は何をしても正しい存在ではなく、従うに値することを自ら証明しなければならない。
後にDC公式がこの歴史を振り返った際も、同様の位置づけを示している。ハルはグリーンランタン・コァの背後にある既存の権力構造を体現し、オリバーはその構造に衝突する破壊者だった。

つまり、二人の思想的対立は最初から、単純な「差別対反差別」の争いではない。「秩序は正義を実現できる」と深く信じる保守的な人物と、「権力そのものが抑圧を生み出す」と警戒する反逆者の対立だった。
#76の後半は、その構図を特に明確に描いている。悪徳家主の行為を知ったハルは介入しようとするが、ガーディアンズは彼が地球上の社会問題に関与することを認めず、彼を別の場所へ向かわせる。それでもハルは命令に背いて地球へ戻り、グリーンアローや地方検事と協力して、家主を追及するための証拠を手に入れる。

この号でハルが遂げる本当の成長は、権威への盲従から初めて抜け出したことだ。上の命令に従い、手続きを守るだけでは、本当の正義を実現したことにはならないと悟る。
この構図は黒人問題だけにとどまらない。たとえば『グリーンランタン』#79で、二人が先住民の土地と伐採権をめぐる争いに巻き込まれた際には、その路線対立がついに殴り合いへ発展する。

ハルは古い契約書を探し、土地の所有権を確認するという「手続きの道」を選び、制度内の法的手段で紛争を解決しようとする。対するオリバーは、ためらうことなく抑圧される共同体の側に立ち、先住民に直接的な抵抗さえ促す。
オリバーの急進的な方法を前に、ハルは「法律に従わなければならない」と制止しようとするが、返ってきたのはオリバーの怒りだった。二人のスーパーヒーローは、政治思想の相違を譲れないまま、野営地で殴り合うことになる。
最終的に伐採企業の首謀者は逮捕されるものの、土地所有権をめぐる本当の争いは法廷に戻される。ここからも、ハルが繰り返し見せる性格上の欠点が手続き主義であることが分かる。彼は証拠、合法的権限、制度が答えを与えると信じている。問題は、その信仰のために、制度の背後にある権力関係を見抜くのが遅れてしまうことだ。
ロチェスター大学の歴史学者ジェシー・T・ムーア(Jesse T. Moore)は、論文「The Education of Green Lantern: Culture and Ideology」で、オニールの創作を当時の「新左翼」(New Left)と、コミック界に広がった「社会的リアリズム」の潮流の中に位置づけている。
注目すべきは、ムーアが物語の命題を「ハルは無自覚な人種差別主義者だ」と単純化していないことだ。むしろ、この作品が問うているのは、「正義、法律、秩序は、国家と制度だけが定義するものなのか」(justice, law, and order are exclusively the domain of the state)という問題だと指摘している。

この見方は、先ほど触れた「体制派」としてのハルの位置づけとほぼ完全に符合する。論文タイトルの「グリーンランタンの教育」(Education of Green Lantern)という言葉そのものが、作品の物語的核心を的確に示している。ハルの最大の課題は、制度の枠組みを越え、現実世界から衝撃的な教育を受けることなのだ。
▌なぜスーパーヒーローを「教育」する必要があったのか? グリーンランタンの「合法性」という盲点
#76が出版されたのは1970年で、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King)の暗殺と、1968年公正住宅法の成立から約2年後だった。当時、アメリカの黒人自由運動が提起していた問題は、もはや「法律上の人種隔離が廃止されたか」にとどまらず、住宅、雇用、教育、警察、地域資源に存在する構造的な権力格差へと移行していた。
▼番組『BackStory』のインタビュー。激動する1970年代のアメリカ社会を前に、オニールは現実の政治的な傷や公民権運動の指導者たちを、いかに大胆にスーパーヒーローの物語へ取り入れたかを振り返っている。
スミソニアン国立アフリカ系アメリカ人歴史文化博物館(National Museum of African American History and Culture、略称NMAAHC)も、1968年を重要な転換点として位置づけている。ジム・クロウ法(Jim Crow laws)を廃止しただけでは、平等と正義が自動的に実現するわけではない。「ブラック・パワー」の思想は、学校、企業、社会福祉、地方政治に対する黒人共同体の自主権を一層重視した。
そう考えると、『グリーンランタン』#76が、あからさまな極端な人種差別主義者ではなく、「貧民街の家主」を主要な悪役に据えたのは偶然ではない。オニールの脚本が本当に解剖しようとしたのは、財産、契約、「合法的権利」の外皮をまとった構造的暴力だった。
だからこそオニールは、ハルに露骨な人種差別的発言をさせるのではなく、本質的には善良で、勇敢で、法律を守る白人ヒーローを繰り返し「間違った側」に立たせた。
1978年と1980年に『The Comics Journal』の創設者兼編集者ゲイリー・グロース(Gary Groth)のインタビューを受けた際、オニールは『グリーンランタン/グリーンアロー』を「政治的な模範解答を提示する」説教臭いコミックとして捉えることに明確に反対している。
オニールによれば、この「社会性」を掲げた作品群について最もよくある誤解は、脚本家が世界を救う万能薬のような答えを宣伝しようとしていたと考えることだった。だが実際には、物語の中で最終的な解決策を提示しようとしたことはない。彼が読者に伝えたかったのは、ただ「こうした問題は実在する。目をそらさずに見てほしい」ということだった。
オニールが望んだのは、読者や、ハルのように自分が正義の側にいると信じる善人が、既存の世界に満足しすぎないことだった。現実には、合法的秩序によって覆い隠された無数の傷が存在しているからだ。
したがって、ハルを単なる人種差別主義者、あるいは偏見の持ち主へと単純化すれば、この物語は最も重要な批判力を失ってしまう。オニールが必要としていたのは、自分は正義の側にいると信じながら、制度を過度に崇拝するあまり、現実の不正義を見過ごしてしまう人物だった。それこそが、当時のアメリカのコミック界で「社会性」と呼ばれた潮流の核心的な実験の一つだった。
この大胆な試みは、『ニューヨーク・タイムズ』『ウォール・ストリート・ジャーナル』『ニューズウィーク』(Newsweek)など、主要メディアからたちまち大きな注目を集めた。コミック史家ブラッドフォード・ライト(Bradford Wright)が指摘したように、当時のメディアは、現実の政治問題と向き合い始めた一連のスーパーヒーロー作品を「社会性(relevance)」という言葉で総称していた。
▌人種偏見とは別の問題――ジョン・スチュワートの初登場
「ハルには本当に人種偏見があるのか」という問いへの答えは、#76だけでなく、『グリーンランタン』#87からも読み取ることができる。
この号では、ジョン・スチュワートが初めて正式に登場する。ジョンは、路上でドミノをしている黒人たちに二人の白人警官が絡んでいるところを目撃し、彼らは何の法律にも違反していないと、その場で抗議する。
傍らで観察していたハルは、ジョンが警察や権威に示す態度を見て、彼がリングを受け継ぐのにふさわしい人物なのか疑問を抱く。この若者は権威への敵意が強すぎると考え、「ジブラルタルの岩ほど巨大なわだかまりを肩に背負っている」とまで形容する。ここでハルが最初に疑問視しているのは、ジョンの肌の色ではなく、その性格と振る舞いだ。
だからこそ、ガーディアンが直後に「我々は君の狭量な偏見などに興味はない!(we are not interested in your petty bigotries!)」と鋭く退けた言葉を、人種差別という意味だけで解釈することはできない。

ハルはもともと権威に従うことに慣れた人物だ。そのため、ジョンが体制に反抗する姿を見た瞬間、本能的に強い反発を覚えた。文脈を踏まえれば、ガーディアンの言う「偏見」とは、ハルが自分自身の行動様式を基準として、「権威に挑戦する者」に抱いた狭量な先入観と拒絶を指している。
物語の中で明白な人種差別主義者として描かれているのは、実際にはジェレマイア・クラッチャー(Jeremiah Clutcher)上院議員だ。彼は人種間の敵意を利用して政治的支持を集め、偽装暗殺や暴力事件まで計画し、その責任を黒人社会に押しつけようとする。

ハルは当初、「公職者は守られるべきだ」という制度上の論理から行動する。一方、ジョンは政治家という表向きの肩書の背後にある悪意を、ハルより早く見抜く。物語は最終的に、ガーディアンがジョンを選んだ判断が正しかったことを証明し、ハルにも自分がこの若者を見誤っていたと認めさせる。
さらに注目すべきなのは、物語の後半が、こうした行動様式の衝突を「双方」にある欠点として意図的に描いていることだ。体制派としての盲点を持つのはハルだが、ジョンも完璧な人物ではない。
『グリーンランタン』#87の中盤で、ジョンはハルを人種的な響きを伴う「白人野郎(whitey)」と呼ぶ。これに対し、ハルは最後に「俺を白人野郎と呼ぶな(Don’t call me whitey)」と正面から言い返し、「罪のない者が最初の石を投げよ」という聖書の言葉を用いて反論する。

このやり取りからも、オニールがジョンを常に道徳的高みに立つ完璧なヒーローとして描いてはいないことが分かる。ジョンもまた辛辣で衝動的であり、自分の目には保守的な白人の先輩と映るハルを刺激するため、意図的に人種化された言葉を使う。結局のところ、二人が関係を築く過程は、異なる世代と異なる社会経験の間で避けられない摩擦だった。
実際、物語に登場する明白かつ極端な人種差別主義者は、二人が共に対峙する白人上院議員の方だ。この政治家は白人至上主義を公然と唱えるだけでなく、念入りな「偽装暗殺」を計画する。黒人の狙撃手に自分を襲わせ、共犯者には警官を殺害させ、黒人暴動が起きたように見せかけようとする。人種的恐怖をあおり、自らの大統領への野心に利用するためだ。
ジョンがガーディアンの選択が正しかったことを証明できたのは、権力の腐敗を一目で見抜き、「上院議員」という制度上の権威に惑わされなかったからだ。対するハルは一時、「グリーンランタンは脅威にさらされた公職者を守らなければならない」という表面的な論理に固執し、危うく悪人の共犯者になるところだった。
物語の終盤で、ハルはついにジョンへ「君のやり方には反発を覚えた!(Your style turned me off!)」と打ち明ける。ジョンはすかさず、「やり方なんて、肌の色と同じように重要じゃない!(Style isn’t important any more than color!)」と返す。この先入観を打ち破る会話こそ、この号が二人に託した本当の結論だ。

『グリーンランタン』#87の物語は、確かにハルが体制上の盲点を持ち、権威に抵抗する者へ先入観を抱きやすいことを示している。現代の人種研究という観点から見れば、その盲点が白人主流社会で生きてきた経験と密接に絡んでいることも否定できない。それでも、「原作がハルを人種差別主義者として設定した」と主張することとは、本質的に別の問題だ。
▌誤読された体制的盲点――秩序の守護者に差別主義者の汚名を着せたのは誰か?
では、「1970年代の原作は、ハル・ジョーダンを人種差別主義者として描いていたのか」と問われれば、最も厳密な答えは依然として「いいえ」だ。
少なくとも、『グリーンランタン』#76で最も頻繁に引用される「黒い肌」の会話が本当に指し示しているのは、階級的な隔たり、体制上の盲点、そして合法という表面への盲信であり、意識的であれ無意識的であれ、人種的敵意ではない。
#87に至っては、ハルがいわゆる人種偏見を露呈するどころか、彼の先入観が肌の色とは無関係であることをさらに示している。その偏見は、反逆者に対する本能的な拒絶と、権威へ硬直的に服従する「体制派」の姿勢から生まれている。

この違いを明確にすることが重要なのは、オニールが本当に必要としていたのが、対立する「悪人」ではなかったからだ。彼が描いたのは、まだ現実世界を理解していないヒーローだった。バットマンが自警活動への偏執に陥り、スーパーマンが過度に理想主義的な思考へ傾くことがあるように、ハル・ジョーダンの行動上の欠点は、「合法的秩序」への盲目的な依存にある。
ハルが法律と秩序、ガーディアンズを心から信じているからこそ、グリーンアローの挑戦には重みが生まれる。ハルが自分は全人類を救ってきたと信じているからこそ、黒人の老人が放つ「では、我々は?」という一言が致命的な力を持つ。ハルの誤りは、黒人には救う価値がないと思っていたことではない。上層部から与えられた任務を忠実に遂行すれば、それだけで正義を実現したことになると無邪気に信じていたことだ。これこそ、#76が今なお人々を震撼させる核心的価値である。
しかし、この歴史的理解を踏まえて、近年のHBOドラマ『ランタンズ』(Lanterns)におけるハル・ジョーダンをめぐる論争を見れば、現代の議論が問題をひどく平板化していることが分かる。
脚本家のヴァネッサ・ベイデン・ケリー(Vanessa Baden-Kelly)とジャスティン・ブリット=ギブソン(Justin Britt-Gibson)は、『The Ringer-Verse』のインタビューで、人種と世代交代という要素をハルとジョン・スチュワートの関係へ意図的に盛り込んだと語っている。
ケリーはさらに、「60歳で、アメリカ南部出身の白人男性」という枠組みからハルを捉え、劇中で見せる「マイクロアグレッション」には人種差別的な傾向が表れていると説明した。二人の脚本家は、2024年にジョー・バイデンが大統領選から撤退し、カマラ・ハリスが後継候補となった政治的な出来事によって、「上の世代は次の世代に道を譲れるのか」という命題への意識が強まったことも明かしている。

ハルにレッテルを貼るこの風潮は、ドラマ放送後の別の発言によってさらに加速した。公式ポッドキャスト『DC Studios Showcase』の共同ホスト、フランキー・スミス(Frankey Smith)は個人のThreadsアカウントで、「残念だけど、ハルには確かに少し人種差別的なところがある」と断言した。読者から疑問を呈されると、彼女は初期コミックを引用した別のユーザーにも同意し、正史のハルにはもともと人種差別的な面があると主張した。


しかし、ここまでのテキスト分析で示したように、この主張は精査に耐えない。物語の中でハルが示したのは、肌の色に向けられた人種偏見や「マイクロアグレッション」ではなく、硬直した体制への盲信だった。当時脚本を担当したオニールにも、彼を人種差別主義者として描く意図はなかった。
実際、オニールは生前の2011年に掲載されたインタビューで、自ら明確な答えを示している。当時のグリーンランタンは、彼にとって警官だった。「完全に公正で、誠実で、高潔ではあるが、それでも権威を体現する男」だったという。ハルが揺るぎない体制側を代表していたからこそ、物語には無政府主義者のグリーンアローを登場させ、街頭の人々の声を代弁させる必要があった。

創作者自身によるこの説明は、「正史のハルには人種差別的な面があった」という非難を根底から崩す。さらに明確にしておかなければならないのは、スミスがDC公式番組の司会を務めているとはいえ、この発言は個人のSNSに投稿されたものであり、彼女自身はドラマの脚本家でもないということだ。したがって、これを「DCの公式見解」と捉えるよりも、現代の軽率な風潮を映したものと見るべきだろう。ドラマ版がハルを再解釈したことに伴い、公式と仕事をする人物までが古典コミックの表層だけを読み違え、ハルの複雑な「体制上の盲点」を安っぽい憎悪のレッテルへと単純化し、「彼はもともと少し人種差別的だった」という平板な論調を補強してしまっている。
だからこそ、現代のコミックや映像作品が、ハルを観客から非難させやすい「白人の人種差別的な先輩」にまで格下げする必要はない。2026年の『ランタンズ』が、ジョン・スチュワートの原作における背景や、ハルとの関係を再構築していることは間違いない。翻案作品が二人の政治的位置や人生経験を組み替えるのは自由だ。しかし、オニールとニール・アダムス(Neal Adams)の思想的系譜を受け継ぐつもりなら、最もドラマチックなハル・ジョーダンとは、秩序を心から信じるがゆえに、「秩序そのものが生み出す傷」に気づくのが遅すぎる人物であるべきだ。
彼に過ちを犯させ、被害を受けた者から問いたださせ、現実を見つめ直させる。そして最後には、かつて絶対的に信じていた権威へ背かせる。その覚醒の過程は、乱暴に「人種差別主義者」というレッテルを貼るよりもはるかに深い。そして、それこそが『グリーンランタン/グリーンアロー』の偉大なキャラクターアークに、本当の意味で応える描き方なのだ。
via: The Comics Journal Forces of Geek Wiley Online Library BackStory Archive - New American History