もしあなたが、かつて任天堂ファミリーコンピュータ(ファミコン)がゲーム業界を席巻し、面白いゲームが次々と登場した黄金時代を経験した世代なら、きっと当時夢中になった数々の名作を思い出すことでしょう。中でも、多くのプレイヤーにとって共通の思い出となっているシリーズが、そう、『熱血シリーズ』です!
『くにおくん ザ・ワールド クラシックスコレクション』パッケージビジュアル Image credit:Arc System Works

ファミコン世代の方なら、きっと『熱血シリーズ』のゲームについて、お気に入りのタイトルをいくつか挙げられるはずです。『熱血高校ドッジボール部』、『熱血行進曲』、『熱血高校バスケットボール部』、あるいは『熱血物語』や『熱血時代劇』など、その魅力に抗える人は少ないでしょう。
今回は、『熱血シリーズ』にまつわる物語、その誕生から人気を博し、そしてなぜ徐々に衰退していったのかについてご紹介します。
『熱血シリーズ』の起源とは?まさかの「社長の名前」が由来?
『熱血シリーズ』の主人公といえば、誰もが知るあのリーゼントヘアに真っ白な学ランをビシッと着こなし、見るからに喧嘩上等な不良「くにお」です。最近、新機種向けにリリースされた、過去の『熱血シリーズ』作品を多数収録した『くにおくん ザ・ワールド クラシックスコレクション』でも「くにお」と統一されていますが、実は、この「くにお」という名前、ある人物の名前が由来となっていることをご存知でしょうか?
その名前の由来は、『熱血シリーズ』の誕生秘話に遡ります。『熱血シリーズ』の生みの親である岸本良久氏は、1985年当時、ゲーム会社「データ・イースト」に在籍していました。そこでテクノスジャパンがリリースしたレスリングゲーム『エキサイティングアワー』を見て、キャラクター同士が戦う格闘ゲームのアイデアを閃いたのです。
『熱血シリーズ』の生みの親、岸本良久氏 Image credit:マイナビ

レスリングゲーム『エキサイティングアワー』 Image credit:任天堂

そして岸本氏は企画書をまとめ、テクノスジャパンへ転職しました。その企画書のタイトルこそが『熱血硬派』だったのです。不良少年を主人公にした格闘アクションゲームというこの企画は、岸本氏自身が暴走族だった過去が関係しています。
岸本良久氏の若き日の暴走族時代の姿 Image credit:騰訊

テクノスジャパン(通称テクノス)という会社の創業者は、瀧邦夫氏です。彼も元々はデータ・イーストの社員でしたが、1981年に独立してテクノスを設立しました。岸本氏の企画書を見た瀧氏は、当初『熱血硬派』というタイトルではインパクトに欠ける、何か物足りないと感じたそうです。
中央でサングラスをかけているのが瀧邦夫氏、右端はアークシステムワークス社長の木戸岡稔氏。 Image credit:famitsu

自身の企画に自信を持っていた岸本良久氏は、当時流行していた「〇〇くん」という呼び方や、コナミのゲーム『新入社員とおるくん』から着想を得て、社長の名前を拝借し、ゲームタイトルを『熱血硬派くにおくん』とすることを提案しました。瀧邦夫社長はこれを快諾したものの、岸本氏にこう告げたといいます。「俺の名前を使うからには、売れなかったらクビだからな!」
社長からのプレッシャーの中、岸本氏とキャラクターデザイン担当の緒方孝治氏ら開発メンバーは、わずか4ヶ月という短期間で開発を完了。アーケードでリリースされるやいなや好評を博し、翌1987年にはファミリーコンピュータにも移植され、こちらも高い評価を獲得しました。岸本氏がクビを心配する必要はありませんでした(笑)。
1986年アーケード版『熱血硬派くにおくん』の宣伝ポスター Image credit:Pinterest

1986年アーケード版『熱血硬派くにおくん』のゲーム画面 Image credit:EGG

1986年アーケード版『熱血硬派くにおくん』のゲーム画面 Image credit:EGG

1987年ファミコン版『熱血硬派くにおくん』のパッケージ Image credit:Arc System Works

ちなみに、主人公の名前が社長に由来するだけでなく、後のシリーズ作品に登場するキャラクターの多くも、自社の社員の名前が元ネタになっています。主人公のライバルである「りき」は、岸本氏の地元にいた、とある恐ろしい人物の名から取られたそうです。また、アーケード版のキャラクターボイスは、キャラクターデザインを担当した緒方孝治氏が「りき」と暴走族ヘッド「しんじ」の声を兼任。スケ番の「みすず」の声は、瀧社長によれば、彼の女性の友人(歌舞伎町のバーで知り合った女性だとか)が担当したとのことです。
▼こちらの映像は、当時ファミコン版『熱血硬派くにおくん』の販促用に制作された貴重なものです。実写パートやキャラクターイラスト、ステージの隠しアイテム攻略などが収録されています。:
『熱血硬派くにおくん』リリースの翌年、1987年、テクノスジャパンはまず、ブルース・リーをコンセプトに、後にベルトスクロールアクションの金字塔となる『ダブルドラゴン』をリリース。続いて、くにおのキャラクター設定に新たな発想を加え、ドッジボールと組み合わせることで、アーケードゲーム『熱血高校ドッジボール部』を生み出しました。必殺シュートが乱れ飛ぶバイオレンスなゲーム性が人気を博し、1988年にはファミコンへ移植。キャラクターの外見や名前など、設定がより作り込まれ、本作を『熱血』シリーズの入り口としたファンも少なくありません。
1987年アーケード版『熱血高校ドッジボール部』の宣伝ポスター Image credit:電脳世界の秘密基地

1987年アーケード版『熱血高校ドッジボール部』のゲーム画面。ボスキャラ以外は、いわゆる“ザコキャラ”的なデザインなのが見て取れます Image credit:任天堂

社長が気に入らなかった2.5頭身スタイルが、まさかの大ヒット
『熱血高校ドッジボール部』はテクノスジャパンに大きな成功をもたらしました。ファミコン版は約50万本を売り上げ、ミリオンセラーには届かなかったものの、当時のテクノスジャパンの企業規模を考えれば、これは素晴らしい記録です。そして1989年、「ダウンタウン」シリーズの第一作『ダウンタウン熱血物語』が登場し、『熱血』シリーズの代名詞ともいえる2.5頭身(※日本では3頭身と表記されることが多い)のキャラクターデザインを確立しました。
1988年に発売されたファミコン版『熱血高校ドッジボール部』。本作で初めて『熱血』シリーズに触れたという方も多いのではないでしょうか Image credit:Youtube

もともとこのデザインは、ファミコンのハードウェア性能の限界に対応するためのものでした。アーケード版のグラフィックを完全には再現できないため、キャラクターをデフォルメしたのですが、意外にもこれがキャラクターのアクションをより豊かに見せることになり、プレイヤーから絶大な支持を得ることになったのです。
この変更を最初に提案したのは、当時ファミコン版『熱血高校ドッジボール部』の開発を担当していた吉田晄浩氏でした。彼がこのスタイルをドッジボールに持ち込んで好評を得た後、続けて2.5頭身のキャラクターで横スクロールのアクションゲームを開発しようとしたところ、社内からは反対の声が上がりました。社長の瀧邦夫氏からトイレで「コミカル路線はダメだ!」と釘を刺されたこともあったそうです。しかし、その後リリースされた作品の売上は予想をはるかに上回る好成績を記録。これを受けて、社長も吉田氏に開発を任せるようになったのです。
ファミコン版『熱血高校ドッジボール部』を開発した吉田晄浩氏 Image credit:Twitter

ダウンタウンシリーズ第一作であり、『熱血』シリーズの2.5頭身スタイルを確立した『ダウンタウン熱血物語』 Image credit:EGG

1990年から1994年にかけて、テクノスジャパンはほぼ毎年2~3本の新作をリリースしていました。1990年の『熱血高校ドッジボール部 サッカー編』は40万本を売り上げ、同年の「ダウンタウン」シリーズ作品『ダウンタウン熱血行進曲 それゆけ大運動会』も35万本を販売。1991年には名作『ダウンタウンスペシャル くにおくんの時代劇だよ全員集合!』が発売され、なんと50万本もの大ヒットを記録しました。まさにテクノスジャパンは『熱血』シリーズによって莫大な利益を上げ、同社にとって最も重要な屋台骨となっていたのです。
しかし、それは同時に、テクノスジャパンが崩壊へと向かう予兆でもありました。
過剰な依存、時機の逸失、そして赤字——熱血帝国の急速な崩壊
1996年、テクノスジャパンは倒産を宣言し、当時のゲーム業界に衝撃が走りました。プレイヤーたちは騒然となりましたが、その背景を知れば、これは決して意外なことではありませんでした。テクノスジャパンが倒産に至った理由は、簡潔にまとめると次の12文字に集約されます。「過剰な依存、時機の逸失、そして赤字」です。
多くの人は、テクノスジャパンの倒産は、中野に自社ビルを建設するために多額の資金を投じたことや、バブル経済の崩壊が重なったことが原因だと考えています。しかし、それは一因に過ぎず、最大の原因はテクノスジャパン自身の経営方針にあったのです。
▼Googleマップで見たテクノスジャパンのビル。現在は「いちご中野ノースビル」に名称が変更されている

過剰な依存
当時のテクノスジャパンは、主に『熱血』シリーズと『ダブルドラゴン』という2つのIPを収入源としていました。ファミコンで立て続けにヒット作を生み出してからは、ほぼすべてのリソースをこのシリーズに注ぎ込み、原点であるアーケードゲーム事業は顧みられなくなりました。『ダブルドラゴン』は当時、ベルトスクロールアクションの代表的な作品でしたが、そのわずか2年後、カプコンが同作を参考に『ファイナルファイト』を開発します。より優れた操作性、打撃感、そして正確な当たり判定を持つ『ファイナルファイト』は、瞬く間にベルトスクロールアクションの王座を奪い去りましたが、テクノスジャパンはこれに対抗する手を打つことができませんでした。
1989年にカプコンがリリースした『ファイナルファイト』。まさに『ダブルドラゴン』を参考にして生み出された作品です Image credit:Youtube

『熱血』シリーズは当初こそ面白かったものの、似たような作品が続くとマンネリ化は避けられず、「テクノスはこういう単純なゲームしか作れない会社だ」というイメージが定着。売上も下降線をたどっていきました。
時機を逸した展開
『熱血』シリーズが全盛期を迎えつつあった頃、奇しくも任天堂は次世代機への移行期にありました。1990年11月にスーパーファミコンが発売されましたが、テクノスが最初の『熱血』シリーズ作品である『初代熱血硬派くにおくん』をスーパーファミコンで発売したのは、1992年8月のことでした。カプコンの『ファイナルファイト』が1989年にアーケードで登場し、翌1990年にはスーパーファミコンへ移植されたことと比較すると、その対応の遅さは明らかです。ライバルがひしめく中、この一点からもテクノスの技術力不足がうかがえます。
1993年12月に発売された『ダウンタウン熱血べーすぼーる物語』は、決して駄作ではありませんでしたが、大きな反響を呼ぶには至らず、『熱血』シリーズならではのスポーツゲームとしての魅力も発揮できませんでした。さらに、本作の発売からわずか3ヶ月後には、コナミから『実況パワフルプロ野球'94』が登場したことも逆風となりました。 Image credit:Youtube

収入を上回る支出
自社の看板タイトルが苦戦する一方で、テクノスは多額の経費を使い続けていました。自社ビルの建設に加え、豪快な人柄で知られた瀧邦夫社長は、会社の業績が良かった時期に課長級以上の社員に法人カードを支給し、経費で自由に使わせたといいます。また、約200名の全社員を招待し、歌舞伎町のバーで盛大なパーティーを開いたこともありました。さらに、多額の資金を投じてレーシングチームを結成し、F3レースに参戦するなど、その支出は膨大なものでした。
1993年当時のテクノスF3レーシングチームの写真。マシンやスタッフのウェアにはテクノスのロゴが見える。 Image credit:Twitter

また、一説には、1992年から1993年にかけて、大手ゲームメーカーのスクウェアが株式上場を目指し、開発力強化のために多額の資金を投じて各社から人材を積極的に引き抜いていた時期と重なります。多くのゲーム会社からスタッフが流出し、テクノスもその例外ではありませんでした。この人材流出が、多くの中小企業が大手グループのペースについていけなくなり、市場から姿を消していく一因になったとも言われています。
1996年にテクノスが倒産した後、『熱血』シリーズの版権はいくつかの会社を経て、現在は格闘ゲームで知られる「アークシステムワークス」が保有しています(『ダブルドラゴン』シリーズも同様です)。この十数年間も、『熱血』シリーズの新作は断続的にリリースされてきましたが、その多くは過去作のリメイクやアレンジ、あるいは往年のスタイルを借りただけの作品でした。グラフィックこそファンにはお馴染みのものですが、ゲーム内容は単調で深みに欠けるものが多く、現在のゲーム市場においては、もはや懐かしさを売りにするしかないのかもしれません。『熱血』シリーズもまた、時代の流れと共に過去の思い出となっていくのでしょう。