「日々の素振りで使っていた木刀を天井から吊るし、その紐を切るーー運命の針は瞬く間に落ち、宮脇一家の未来を決定した。」
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約60年の歴史を持つ海洋堂は、日本を代表する、職人魂溢れる模型メーカーの一つです。宮脇修館長と宮脇修一専務の親子二代にわたって経営され、驚異的な可動域を誇る『リボルテック』シリーズの模型を世に送り出してきました。また、日本やアメリカの自然史博物館向けに精巧でリアルな恐竜の展示模型を制作し、世界最大級のガレージキット展示即売会『ワンダーフェスティバル』の主催も務めています。しかし、そのルーツは大阪守口市土居駅近くにあった、貸本屋を改装したわずか1.5坪の模型店だったというから驚きです。
現在、大阪門真市に位置する海洋堂本社。 Image credit:海洋堂

運命の木刀
1964年、36歳だった宮脇修は、妻の宮脇里枝との間に息子修一を授かっていました。南満州鉄道職員、カツオ漁師、マグロ漁船員、広告代理店、貸本屋など、30種類以上の職を転々としてきたものの、どれも長続きせず、安定した職には就いていませんでした。息子・修一の小学校入学を目前に控え、宮脇修はそろそろ腰を据えて商売を始めなければならないと考えていました。しかし、一体どんな店を営むべきか? かつて習得した技術を活かしてうどん店を開くか、それとも息子が大好きな玩具であるプラモデル店を選ぶか、悩んでいました。
最終的に宮脇修は「木刀占い」で決断を下します。日々の素振りで使っていた木刀を天井から紐で吊るし、その下に東西南北の四方位を描きます。もし落ちた木刀が東西を指せばうどん店、南北を指せば模型店を開業すると決めたのです。そして紐を切断――運命の針は瞬く間に落ち、模型店「海洋堂」の誕生を決定づけました。もしあと数度ずれていたら、今日の海洋堂は一大うどんチェーン店になっていたかもしれませんね!
木刀占いを示した図。 Image credit:海洋堂

海洋堂の運命を決めたこの木刀は、今も宮脇修館長によって大切に保管されています。 Image credit:ニコニコニュース

プラモデルは昭和40年代に海外から伝わり、当時としては非常に先進的で流行の玩具製品でした。国内でもタミヤ(TAMIYA)、今井科学、マルサンといったメーカーが生産に乗り出し、艦船、航空機、車両、建築物などを題材とした製品が主流でした。
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宮脇修一がコレクションするプラモデルの中には、模型店時代から保存されているものも少なくありません。 Image credit:海洋堂

尽きることのないアイデアで、子どもたちの心を鷲掴みに
海洋堂は、わずか7万円の資本金と1.5坪の店舗からその歴史をスタートさせました。資金は乏しかったものの、創業者である宮脇修氏には「日本一になる」という大きな野心がありました。彼は、持ち前の尽きることのないアイデアと行動力を武器に、子どもたちとの距離を縮めることに全力を注ぎます。毎日問屋へ足を運び、子どもたちが欲しがる模型を仕入れ、「模型で遊ぶ場所がない」という声を聞けば、店内には船を浮かべられる水槽や、戦車用のジオラマを設置。さらには模型教室を開いたり、子どもたちを無料でタミヤの工場見学へ連れて行ったりと、利益が出れば、それをすぐにお客様のニーズに応えるための店舗改装に充てました。通常の模型店が単に商品を売買するだけだった時代に、子どもたちが遊べる施設をここまで充実させる店は他にありませんでした。この前代未聞の経営スタイルによって、海洋堂はタミヤ製戦車模型の販売数で3年連続日本一を達成し、その名は一気に全国へと広まっていったのです。
開業当初の海洋堂の店舗。店内はプラモデルで埋め尽くされ、非常に手狭だったことがわかります。
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宮脇修一専務が小学2年生になる頃には、店舗は10坪にまで拡張。1階のほとんどが模型店となり、艦船用の水槽や戦車のジオラマが設置されていました。宮脇専務は当時を振り返り、自宅が同級生たちの遊び場であり、自身はその中心に立つガキ大将のような存在だったと語ります。
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当時開催されていた「模型教室」の様子。子どもたちに模型製作を教えるだけでなく、時には一緒に川へ遊びに行くこともあったそうです。
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模型をアートへ――帆船の海洋堂
1970年代の高度経済成長期に入ると、日本全国で模型店同士の競争が激化。宮脇専務の記憶では、当時は小学校の近くに5~6軒もの模型店がひしめき合っていたといいます。そんな中、宮脇修氏は、模型は子どもだけの趣味ではなく、大人が高額を投じてハイレベルな模型を求める時代が来ていることに気づきます。時代の変化に対応し、他店との差別化を図るため、彼はプラモデルにさらなる付加価値を与える「模型の芸術化」という理念を提唱。帆船模型専用の製作ツールセットを開発したほか、自身の高い技術力を活かして、精巧な模型完成品の販売も開始しました。
海洋堂が開発した模型用ツール。ニッパー、デザインナイフ、ピンセット、ピンバイスなどが含まれています。当時は「模型専用ツール」という概念がなく、その多くは工業用や医療用の道具を転用したものでした。
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アメリカのレベル社が製造する帆船模型を、キットの成形色から銅製の質感へと昇華させ、さらに布製の帆といった精密なディテールを追加することで、高級感あふれる作品へと生まれ変わらせました。定価1万円のこのキットは、本来なら年に1つ売れれば上出来というものでしたが、海洋堂はなんとその価値を20倍から80倍にまで高め、100~200個を売りさばいたのです。この事態にはアメリカのレベル本社も驚きを隠せず、わざわざ日本へ視察に訪れたほどでした。当時、海洋堂といえばまさに「帆船の海洋堂」としてその名を知られていました。
1970年代には、店の看板を青色で統一し、帆船をロゴマークに採用するなど、海を強く意識したブランディングがなされていました。
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宮脇修氏が製作したコンスティチューション号の模型「修羅」は、赤銅や青銅など多彩な色表現によって質感を追求し、一見しただけではプラスチック製とは思えないほどの完成度を誇ります。この作品は芸術品として市の美術展に入選したものの、後にプラモデルであることが判明し、一度は入選を取り消されてしまいます。しかし、その際に宮脇修氏が放った「絵を描くにはキャンバスが必要でしょう。私にとってプラモデルこそがキャンバスなのです。『修羅』というテーマに最もふさわしい赤銅色を選び、持てる技術のすべてを注ぎ込んで作り上げた作品です!」という力強い言葉によって、主催者側は入選取り消しの決定を撤回することになりました。
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経営危機に陥った今井科学が海洋堂に相談を持ちかけた際、宮脇修氏はビジネスの経験と商品アイデアを提供。その結果、史実に忠実なスケールで再現された「ローマ軍船」シリーズなどが発売され、商品は好評を博しました。しかし、今井科学と海洋堂の関係は良好とは言えず、当時の今井科学の担当者が「海洋堂のような一介の模型店に、メーカーの製品企画を任せるなんてとんでもない」と発言したことをきっかけに、両社の関係は決裂してしまいました。
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大胆すぎる挑戦が裏目に。経営危機を救ったのは模型ではなかった
しかし、海洋堂の初期の歩みは、宮脇氏が手がけた帆船模型のように順風満帆とはいきませんでした。あまりにも大胆すぎるアイデアが、彼に莫大な負債を背負わせることになります。スロットカーブームが巻き起こった際には、200坪の倉庫を借りて全長180メートルにも及ぶサーキットを建設。スロットカー専用のレース場へと改装し、「世界一の模型店を作る」と意気込んでいました。しかし、今回ばかりは勝利の女神は微笑みませんでした。収支は赤字続きで、同業他社との競争も激化。子どもたちにとってもコースが広すぎて面白みに欠けたようで、誰もが『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』のように、見えなくなるほど遠くのマシンの後を追いかけられるわけではなかったのです。
さらに、こうしたレース場に大人が集まって賭博行為を行うようになり、学校やPTAから不良のたまり場と見なされる事態に。スロットカーブームの急速な衰退も相まって、海洋堂は多額の損失を抱え、借金で借金を返す悪循環に陥りました。しかしその後、1970年代の最新鋭だった大型アーケードゲーム機を設置したことで子どもたちの人気を集め、海洋堂は九死に一生を得たのです。
当時設置された180mサーキットのあった大倉庫 Image credit:海洋堂

プラモデルの衰退とガレージキットの隆盛――『造形狂の時代』へ
1977年頃、のちに『機動戦士ガンダム』が巻き起こすガンプラブームが到来する以前、日本のプラスチックモデルは、実は衰退期にありました。かつて模型で遊んだ子供たちが大人になってもその情熱は消えず、アニメや特撮作品を愛し続けていましたが、市販のプラモデルでは彼らの熱い想いを満たすことはできなくなっていました。「欲しいキャラクターが製品化されない」「製品化されても劇中のイメージと違う」……ならば、自分たちが欲しいものは「自分たちの手で創り出そう」! こうした熱意から、「ガレージキット」を製作するムーブメントが次第に盛り上がりを見せていきます。
当時、模型製作や造形を教えるカルチャースクールが各地で人気を博していました。宮脇修(現・海洋堂専務)は、そうした流れに対抗するように、「ホビーはすなわち遊びである」という原点を掲げ、200坪もの広大な倉庫を改装し、「海洋堂ホビー館」をオープンさせます。館内には海洋堂の豊富な作例が展示されただけでなく、数多くの作業デスクが設置されました。宮脇修の理念に共感した多くの模型ファンが集い、それぞれが材料を持ち寄っては宮脇親子と共にガレージキット製作に没頭し、複製技術のノウハウを共有する場となっていきました。現在も海洋堂のフィニッシャーとして活躍するBOME氏も、その中の一人でした。
ホビー館へと改装された広大な倉庫には、膨大な作品と作業デスクが並べられました。 Image credit:海洋堂

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後列右から2番目が若き日の宮脇修一専務、前列左端が海洋堂のフィニッシャーであるBOME氏です。
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BOME氏はもともとアニメーターを目指して上京しましたが、アニメ制作会社の過酷な労働環境を目の当たりにし、1984年に大阪へ戻り海洋堂の正社員となりました。
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集ったモデラーの常連客の中には、「(怪獣)ガレージキットの始祖」と称される川口哲也氏の姿もありました。本業は歯科技工士であり、歯の模型や義歯製作を得意としていた川口氏は、その専門技術を応用し、自作の「モスラ幼虫」の複製を試みます。その複製されたパーツを目の当たりにした宮脇親子らは大いに驚き、すぐさま各界のモデラーたちと情報交換や議論を重ね、試行錯誤の末に「シリコンで型を取り、無発泡ウレタン樹脂を注いで複製する」という、低コストかつ高精度な手法を確立しました。この技法は、その後のガレージキットにおける生産方式のスタンダードとなり、未来の日本の模型業界に絶大な影響を与えることになります。
川口哲也氏が1981年に自作した怪獣の原型。 Image credit:怪獣原型師列伝

創成期のワンダーフェスティバルの熱気あふれる会場の様子。 Image credit:ニコニコニュース

この革命的な新技術が海洋堂に影響を与える一方、宮脇修一氏は父の背中から経営のノウハウを学び続けていました。1984年、創業20周年を迎えた海洋堂はガレージキットブームの波に乗り、一介の模型店からメーカーへと転身。翌年には宮脇修一氏が専務に就任し、海洋堂を次なるステージへと導くことになります。次回は、GAINAXの前身であるゼネラルプロダクツとのガレージキットを巡る競争、ワンダーフェスティバルの主催を引き継いだことによる影響、そして模型メーカーへと変貌を遂げた後の「造形精神」へのこだわりに迫ります!
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