(画像:ウォルト・ディズニー・スタジオ)
(本文にはネタバレが含まれます。ご注意ください)
2019年の“超実写版”『ライオン・キング』が心底嫌いだった筆者は、当然ながら『ライオン・キング:ムファサ』にも大して期待していなかった。『ムーンライト』でアカデミー賞作品賞を受賞したバリー・ジェンキンスが監督を務めると聞いても、楽観的にはなれなかった。なぜなら、2019年版を手がけたジョン・ファヴローも、かつてディズニーで大成功を収めた『ジャングル・ブック』を監督していたからだ。あれほどのクオリティの落差は、すでに信頼を大きく損なうものだった。しかし、『ムファサ』がスカーとムファサの若き日の兄弟愛を描くと聞き、その切り口には良作を生み出すポテンシャルがあると感じ、多少なりとも惹かれたのは事実だ。
そして驚いたことに、『ムファサ』は本当に良作と呼ぶにふさわしい出来栄えだった。もちろん、2019年版を超えるのはそれほど高いハードルではないことは承知している。しかし、ハリウッドのスタジオが前作の教訓から学び、修正を加えることがいかに稀であるかも理解しておくべきだ。彼らはほとんどの場合、反省することなく過ちを繰り返す。よほどの興行的失敗で痛い目に遭わない限り、ほんのわずかでも目を覚ますことはないだろう。だが、『ムファサ』は間違いなく、改善しようという十分な誠意を示している。前作のどこが間違っていたのか、そしてどうすればそれを正せるのかを明確に理解しているのだ。

(画像:ウォルト・ディズニー・スタジオ)
まず、最も明白な表面的な部分から話そう。『ムファサ』はついに、リアリズムの追求と、ある程度のカートゥーン的な表現を両立させる方法を見出した。前作の動物たちの表情は、もはや表情とすら呼べない代物で、リアルすぎて感情の動きが肉眼ではほとんど感知できなかった。喜怒哀楽がすべて同じ顔で、終始硬直していたのだ。声優の演技がいかに抑揚に富んでいても、画面上の表情と一致させるのは困難だった。しかし、『ムファサ』は違う。今回は、動物たちの顔の筋肉の動きから、感情を正確に受け取ることができる。動物たちが本当に“演技”をしているのだ。監督と脚本家は、もはやセリフや歌に頼らずとも、動物の表情だけで物語の情報を伝え、心境の変化を表現することさえ可能にしている。
一部のシーンでは、声優の表情豊かな声が動物の演技を上回っていることもある。特に、マッツ・ミケルセンが声を担当するキロスや、レニー・ジェームズが演じるオバシのシーンで顕著だ。彼らはどちらもライオンの王を演じており、怒りや攻撃性、支配権を示す場面が多いため、エネルギーがより外向的になっている。しかし全体として、『ムファサ』のCGIアニマルは真の“俳優”と見なすに値する。もっと控えめに言っても、観客を「彼らは俳優だ」と信じ込ませる幻想の中に引き込むには十分だ。前作のように、あまりにリアルすぎて観客を現実に引き戻してしまう(そもそも入り込むべき“演技”がなかったのだが)のとは大違いだ。
(画像:ウォルト・ディズニー・スタジオ)
『ムファサ』における“演技性”の強化は、動物たちだけにとどまらない。カメラワークにも表れている。ジェンキンスと彼のチームは、より躍動感のあるカメラの動きと構図で緊張感を演出し、前作のような単調で堅苦しいアプローチとは一線を画している。前作が魔法のような雰囲気を試そうとしたのは、アニメ版の象徴的なシーンを再現する時だけ、それも“ほんの少し”だった。『ムファサ』はリアリティを失うことを恐れず、過度な擬人化も厭わない。強調すべき部分は喜んで拡大解釈している。そしてこの精神は、『ムファサ』を前作以上にミュージカルらしく見せている。歌唱シーンのために適切な舞台設定を行い、キャラクターの立ち位置を巧みに配置し、リズムに合わせてカットを繋ぐ編集手法を用いるなど、真剣に取り組んでいるからだ。前作のように、退屈なミュージックビデオとして適当に編集されたものとは違い、本作は本当にミュージカルや舞台劇を観ているかのような感覚を味わわせてくれる。
物語そのものも、『ムファサ』は前作よりはるかに面白い(これはアニメ版の1作目よりも面白いと称賛しているようにも聞こえるかもしれないが、筆者にとってはまさにその通りだ。もともとアニメ版が特別好きだったわけではない)。より正確に言えば、キャラクターを掘り下げる余地が格段に増えている。友情や親子愛、あるいはその他の化学反応を、より現実的な手法で育んでいる。キャラクターが徐々に成長し、変化していく過程を明確に見ることができる(しかも、多くの場合、わずか1、2シーンで的確にそれを達成している)。歌を1、2曲歌っておしまい、というような安易な処理はしていない。スカーとムファサの兄弟の絆の構築、ムファサとサラビの恋の芽生え、ムファサが養母から教えを受け継ぐ親密な繋がり、養父がムファサを拒絶から受け入れるまでの心変わり。すべてが非常に丁寧に積み重ねられており、感情移入しやすい。
(画像:ウォルト・ディズニー・スタジオ)
しかし、『ムファサ』も完璧ではない。前日譚作品にありがちな欠点、つまり、本編のあらゆる起源を一つの作品の中で説明し尽くさなければならないという強迫観念からは逃れられていない。観客が知りたくもなかったような起源までご丁寧に説明し、本編の大小さまざまな出来事と無理やり結びつけようとする。その結果、映画はまるで地図をなぞりながら、決められたゴールへと急いでいるかのように感じられることがある。さらに、時折ペースが速すぎることがあり、登場人物たちの感情がより効果的に醸成されるための“間”が不足している。致命的な欠点とまではいかないが、もう少しペースを落とせば、さらに評価が高まったかもしれない。
そして、この時折速すぎるペースの問題は、スカーの堕落をやや唐突に感じさせてしまう。それまで、ムファサの影に隠れ、あらゆる面で彼に先を越されることで劣等感を募らせていく伏線は張られていた。しかし、ほとんどの場面で彼の寛容さや善良さは嫉妬心を上回っているように見えた。彼を打ちのめした最後の藁は、想いを寄せていた女性が自分の兄弟を好きになったことだけ。しかも、その兄弟が自分の気持ちを抑えて彼を後押ししようとしていたことも知っていたはずだ。それなのに、ムファサを殺害する計画を立てるというのは、この闇堕ちの決定的な動機としては、そこまで残忍な手段に訴えるほど強力なものではなかったように思える。

(画像:ウォルト・ディズニー・スタジオ)
また、この物語を“語り聞かせる”という形式で描く必要があったのか、少し疑問が残る。未来(現在)の時点と過去の時点を頻繁に行き来するのは、感情の流れを妨げるように感じた。物語が少し進むたびに未来のティモンたちのふざけたやり取りに戻るのは、正直言って煩わしい。まるで、過去の物語がシリアスすぎるから、プンバァとティモンで箸休めが必要だとでも言いたげだ。あるいは、単にお馴染みのキャラクターを登場させる口実が欲しかっただけかもしれない。前日譚そのものの物語に自信を持ち、一つの時間軸に集中することはできなかったのだろうか?しかし、ラストでシンバに第二子(息子)が生まれ、長女に弟ができたことで、過去の物語と呼応する構造が生まれる。この姉弟が、スカーとムファサの引き裂かれた兄弟関係を修復する象徴となるかのように。この対比構造は非常に気に入っており、未来の時点を描いたことに、かろうじて意味を与えている。
最後に、DCユニバースの未来のグリーンランタン、ジョン・スチュワート役であるアーロン・ピエールを特筆して称賛したい。若き日のムファサの声優に彼を起用したのは完璧だった。ジェームズ・アール・ジョーンズの低く響く声を少し模倣しつつ、自身の個性も失わない。そのバランス感覚が実に素晴らしい。