【映画評】『バイオハザード』:史上最強のゲーム原作映画に楽々と君臨!怖すぎて漏らし、笑いすぎて吹き出す、プレイ感覚まで完璧に再現

(画像:ソニー・ピクチャーズ)

(以下、ネタバレを含みます。ご注意ください)

実写映像化に失敗したゲームIPは数知れない。『バイオハザード』ももちろん、その代表例のひとつだ。ただし、このシリーズは失敗しただけでなく、異様なまでに生命力が強い。ほかのゲームなら、1、2本、あるいは1、2回の映像化でしくじれば、ハリウッドもしばらく距離を置く。ところが最初の『バイオハザード』映画シリーズは強引に6作を走り切り、きちんと完結までした。その後も二度のリブートに挑み、どの作品も原作を改悪したと叩かれ、駄作の烙印を押されながら、それでも血まみれになって何度も観客の足元へ這い戻り、ズボンの裾をつかんでは、もう一度だけチャンスをくれと懇願してきた。しかし、与えられるチャンスには限りがある。失望が積み重なれば、最後には絶望へ変わる。

だからこそ、今回で3度目となる実写リブートに、ソニー・ピクチャーズが今ハリウッドで最も勢いのあるホラー映画の俊英、ザック・クレッガーを招いたとしても、多くのゲームファンが依然として信用できずにいたのは理解に難くない。とりわけクレッガーの構想が、既存ゲームの物語をすべて避け、オリジナルストーリーを描くというものだったため、一部のファンは古傷を刺激され、さらに強い拒否反応を示した。しかし、クレッガーを本当に知るゲームファンや映画ファンの事前の反応は、その正反対だったはずだ。クレッガーは、これまで実写版『バイオハザード』を手がけてきた作り手とは違う。B級作品ばかりを撮る安っぽい監督などではない。確かな才能を持つ、未来の巨匠だ。彼の『バーバリアン』と『WEAPONS/ウェポンズ』は、いずれも映画史に残ることが約束されたホラーのクラシックである。

(画像:ソニー・ピクチャーズ)

クレッガーの参加は、『バイオハザード』がハリウッドでようやく汚名を返上するという前向きなサインだった。粗悪なVFX、雑な物語、陳腐な演出に覆われてきた過去からついに抜け出し、才能ある作り手が丹念に仕上げた、本物の質感を備える一流作品へと生まれ変われる。そのサインは実際に、『バイオハザード』を泥沼から救い出した。今回の『バイオハザード』は、歴代の実写映像作品で初めて、本当の意味で「良い映画」と呼べる一本である。ある意味、それ自体は難しくない。越えるべきハードルは決して高くなかったからだ。しかし本作の出来は、それと同時に同ジャンルの多くの映画まで上回っている。

まず、本作に抵抗を感じているゲームファンへ強調しておきたい。今回の『バイオハザード』は、厳密に言えば従来の意味での映画化ではない。ゲームの「物語」を材料にして「脚色」したわけではなく、新たな世界観を立ち上げ、そこへ『バイオハザード』の要素や設定を持ち込んで、オリジナルストーリーを語っている。看板だけ借りた別物であり、オリジナルを撮るなら『バイオハザード』の名前を使うな、と皮肉る人が必ずいることも分かっている。しかし、そこがまさに重要なのだ。このオリジナルストーリーの発想は『バイオハザード』に根差している。もしその名前を掲げなければ盗作だと言われ、掲げれば便乗だと言われる。どう転んでも叩かれるというわけだ。

(画像:ソニー・ピクチャーズ)

さらに踏み込んで言えば、クレッガーが映画にしようとしているのは物語ではなく、『バイオハザード』をプレイする体験そのものだ。実のところ、本作には物語らしい物語がほとんどない。不運な配達員がたまたま夜勤中にウイルスの拡散へ巻き込まれ、しかも手にしている荷物には、ちょうど感染を収束させる解毒剤の処方が入っている。それだけ。以上である。前提はきわめて単純で、重要なのは荷物を運ぶ過程だ。そして、その過程こそクレッガーの情熱が注がれている部分であり、本作が『バイオハザード』でなければならない理由でもある。彼が描きたいのは、『バイオハザード』のプレイヤーなら、この状況をどう生き延びるのかという楽しさだ。その楽しさは、『バイオハザード』の要素がなければ構築できない。

これは『バイオハザード』の物語を映画化した作品ではなく、『バイオハザード』のプレイ体験を映画化した作品だ。ゲームの物語を脚色しなければならないという考えにこだわりすぎれば、本作とは最初から波長が合わないだろう。しかし、プレイ体験を映画化するという発想と意義を理解し、受け入れられるなら、本作が与えてくれる楽しさは、普段乗っているジェットコースターの20倍は刺激的だ。映画史を見渡しても、ゲームを遊ぶ快感に最も近い感覚を本当に映像化した作品はごくわずかであり、現時点ではおそらく唯一とさえ言える。これは、とてつもない achievement である。

(画像:ソニー・ピクチャーズ)

大半のゲーム原作映画は、複層的なゲームの物語を、いかに単一の映画的な物語へ変換するかという発想に今も集中している。しかしクレッガーは、ゲームの論理を無理やり書き換えて映画の枠組みに押し込んではいない。まったく逆だ。ゲームを映画へ適応させるのではなく、映画をゲームへ適応させる方法を考えている。クレッガーが徹底して集中するのは、ゲームをプレイしているときの「暗闇の中で手探りしながら環境を探索する」没入感を映画の中に作り出すことだ。その没入感は、たまに一人称視点へ切り替えるだけの表面的な小細工ではない。もっとも、実際にその手も使ってはいるのだが。

その没入感は、クレッガーによる各ステージの設計に大きく表れている。そう、彼は脚本を書いているのではない。文字どおりステージと障害物を設計しているのだ。しかし、その設計へ入る前に、彼は最も決定的な選択をひとつ下した。それは、主人公を徹底的なポンコツにすることだ。どうしようもないほどポンコツで、ヒーローらしさは皆無。だからこそ身近に感じられ、観客は強く自己投影できる。クレッガーが観客に体験させたいのは、平凡な人間が突然あのような危険な状況へ放り込まれたときの無力さとパニックだ。普段ゲームで操作するキャラクターがアクションヒーロー級であっても、プレイヤーが武器やマップ、モンスターの特性に慣れていなければ、ミスを連発して自分を窮地へ追い込むことはある。クレッガーが求めているのは、まさにその面白さである。

(画像:ソニー・ピクチャーズ)

主人公のポンコツぶりがあまりにも現実的だからこそ、本作は歴代の実写版『バイオハザード』のどれよりも爆笑できる。危機的状況での判断ミス、偶然が重なった脱出、土壇場での一か八かの賭け、不運や計算違いによって悪態をつきまくる姿。そのどれもが、クレッガー自身のゲーム体験から得た絶妙な着想であることがよく分かる。主人公のポンコツぶりには、臆病さも含まれている。しかし臆病だからこそ、追い詰められた場面で知恵が働き、本能的に警戒心も強くなる。警戒を強めた主人公が、古臭いホラー映画の定番へツッコミを入れることもある。また、言葉には出さずとも、定番の罠を避け、だまされるのを拒む行動そのものが、思わず笑ってしまう風刺になっている場面もある。

通常、ここまでポンコツな主人公は、ほかの映画ならコミックリリーフの脇役にしかなれない。しかし本作では、観客が感情を投影する中心人物だ。これほど頼りないのに愛される人物を成立させるには、俳優の実力とスクリーン上の魅力が問われる。幸いにも、クレッガーはオースティン・エイブラムスと出会った。主演らしい華を持ちながら、ポンコツで不運な男を演じることにも長けた新世代の俳優だ。彼が不運な役を演じるのが得意だというのは、適当に言っているわけではない。クレッガーと前作で組んだ『WEAPONS/ウェポンズ』では、偶然にも行方不明の子供たちを見つけながら、運悪く呪いをかけられるジャンキーを演じていた。さらに以前の『ウルフズ』でも、ドラッグを運んでいたために裏社会の抗争へ巻き込まれる青年役だった。エイブラムスはドラッグをやっているか、何かを運んでいるかで、その結果、成り行き任せにトラブルへ巻き込まれていく。

(画像:ソニー・ピクチャーズ)

本作はクレッガーが得意とするホラー映画ではあるが、これまでとはまったく異なる種類のホラーだ。人を怖がらせながら笑わせ、観客の感情を激しく振り回すという彼らしさを除けば、本作は『バーバリアン』や『WEAPONS/ウェポンズ』のように、非線形かつ複数の物語を組み替えることへ執着していない。物語は一本、主人公も一人。最後まで一直線に突き進み、寄り道も遠回りもしない。人物の背景を補足する、お涙頂戴の回想シーンすらない。クレッガー自身もその点をよく理解しており、本作を撮る理由のひとつは演出力を鍛えるためであり、複雑で派手な物語の仕掛けを取り払ったあと、最も純粋でミニマルな要素だけでどこまで変化を生み出せるか試したかったと、幾度も語っている。

『バーバリアン』や『WEAPONS/ウェポンズ』を観た人なら、クレッガーの演出力はすでに認めているはずだ。この2作が注目されたのは、派手な物語構成だけが理由ではない。映像と音の設計も、並外れた緊張感を生み出していた。私には今回の『バイオハザード』が、クレッガーに対し、ミニマルな一本道の物語を非線形かつ複数視点の物語と同じくらい面白く語れるかを試す作品に見える。そして問われるのは演出力だけではない。物語の細部を制御する能力、つまり先ほど述べたステージ設計も試されている。本作は、より小さな出来事や小道具によって物語を前へ進めなければならない。それは別種の難しさだ。登場人物が環境を「理解し、手探りで探索する」過程を、自分で「直接操作する」ことと同じくらい刺激的に描かなければならない。受動的に観ることと、能動的に操作することの間には、明確な隔たりがあるからだ。

(画像:ソニー・ピクチャーズ)

クレッガーは、主人公が道中でどんな装備を拾うのかを観客に気にさせることに成功している。たとえば、ほかの映画ならショットガンで身を守り、怪物を倒すことなど特別でも何でもない。しかし本作では、銃すらまともに扱えないポンコツが、ようやく弾を込めて発砲し、無事にヘッドショットを決めた瞬間、観客は歓声を上げる。ここでは装備の重要性も、使用する難しさも事前にきちんと描かれているからこそ、それが役に立ったときの興奮が大きい。クレッガーは、怪物を登場させるタイミングと、姿を見せる時間の長さもよく理解している。誰が感染しているのかを最初から明かさない場合もあれば、先に感染者だと分かっていても、怪物として発症する瞬間を慎重に選んでいる。

一度一度の正体露見、一度一度の発症が、それぞれひとつのクライマックスだ。しかもクライマックスの規模は、段階を追って徐々に大きくなり、爽快感、血糊の量、CGの比率も少しずつ増していく。何の工夫もなくトラック一杯の怪物を飛び出させ、銃でなぎ倒させるような真似はしない。そして主人公がこうした「ボス」を倒す方法も、たいてい誰にでもできそうなほど身近で、それがまた愉快だ。彼は本当に頼りないため、極端な不運と極端な幸運の間を絶えず行き来し、ときおり機転を利かせて格好良く決める瞬間が訪れる。一連のステージ攻略を通じて、「ゲームメカニクスが物語上の効果を発動させるトリガーへ変わる」という、豊かな工夫を存分に味わえる。

(画像:ソニー・ピクチャーズ)

一方を持ち上げるために他方をこき下ろすのは本当に避けたいが、作品の質に高低があるのは否定できない。本作の存在は、ゲームらしさやプレイの特性へ忠実であることが、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』のような大駄作しか生み出せないという意味ではないことを証明している。本作は『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』以上に物語がなく、人物描写にもほとんど時間を割いていない。せいぜい、電話越しに恋人と子供を産むべきか言い争う程度だ。それでも空虚には感じられない。純粋な娯楽映画にも、きちんとした技術が必要なのだ。マッサージと同じで、正しいツボを正しい力加減で押してこそ、心地よく血の巡りが良くなる。物語性だけを論じるなら、小さな画面で描かれた『アーケイン』やドラマ版『フォールアウト』、『THE LAST OF US』シーズン1と並べるつもりはない。しかし長編映画のゲーム原作作品という領域では、物語性においても、ゲームを遊ぶ感覚の再現においても、本作はほとんど苦もなく頂点の座へ上り詰めている。