『海洋堂』後編:作家性を重んじる造形精神と精緻な技術!『ジュラシック・パーク』も注目したその実力

「上編:1坪の小さな店から世界へ 模型メーカー宮脇父子の創業物語」では、30以上の職を転々とした宮脇修氏が、いかに運命に導かれるように「海洋堂」を創業し、尽きることのないアイデアを活かして、わずか数年で1.5坪の小さな店舗から日本有数の模型店へと飛躍させたかをご紹介しました。その熱い物語は多くのファンを魅了しましたが、海洋堂の物語はまだ終わりません。宮脇親子が抱く模型への情熱は、あなたの想像をはるかに超えるかもしれません。模型店からメーカーへと転身した海洋堂は、一体どのように発展していくのでしょうか?

「造形狂時代」の到来 ガレージキットの領域へ
1980年代、市販のプラモデルは造形が甘く、質感も粗悪だと感じていた日本の模型ファンたち。海洋堂専務の宮脇修一氏が現在でも「子供騙しのガラクタ商品」と揶揄するほどでした。それならば、自分たちで作るしかない!こうしてガレージキット製作のムーブメントが巻き起こり、仲間内で作品を共有・複製し、活発な交流が生まれました。

宮脇修一氏と、当時ガレージキット製作技術を共に研究した多くの戦友たち。彼らは自らを「造形狂学会」と称していました。 Image credit:まみぴよザダークネス

宮脇親子が経営する模型店・海洋堂も、「HOBBY即ち遊び」という理念に基づき、200坪もの広さを持つ海洋堂ホビー館に作業スペースを設置。当時ガレージキット製作に熱中していた「造形狂」たちを呼び込み、共に製作・交流を深めました。その後、彼らが習得した「まずシリコンで型を作り、そこに無発泡ウレタンを流し込んで複製する」という低コストかつ高精度の技術を応用し、自社商品の製造を開始。その評価は非常に高いものでした。しかし、海洋堂はこの時、後に最強のライバルとなる「ゼネラルプロダクツ」と出会うことになります。

80年代に海洋堂が掲載した広告。初期のガレージキットは、加熱したプラスチック板を真空成形して複製されていましたが、その後、シリコン型を用いた合成樹脂注型法『レジンキャスト』が徐々に確立されていきました。 Image credit:リンタロ


Image credit:リンタロ

最強のライバル 海洋堂成長の糧
『宇宙戦艦ヤマト』を観てSF(サイエンス・フィクション)魂に火がついた青年、岡田斗司夫氏。大学入学後、関西地区のSF研究会の活動企画に積極的に参加し、同好の間ではちょっとした有名人となっていました。1981年、「第20回日本SF大会」で会場販売されていたSFガレージキットが飛ぶように売れるのを目撃した岡田氏は、このブームを巻き起こした業界への参入を決意します。翌年、彼は同じくSFファンの友人である武田康広氏と共同で、大学を中退し、両親から借金をして、実家の企業部門の下にSFグッズ専門店「ゼネラルプロダクツ」を開設しました。

開業一年後、すぐにメディアの注目を集めたゼネラルプロダクツと岡田斗司夫氏。 Image credit:syogeki


岡田氏は大学時代の人脈を活かし、店内で正式ライセンスを取得したSF商品を多数販売。中にはガレージキットも含まれていました。グレーゾーンが多かったこの黎明期において、原作のライセンス取得は稀で容易なことではありませんでした。当時の海洋堂でさえ、積極的には重視していなかったのです。しかしゼネラルプロダクツは、そのために積極的に東京へ足を運び、商品パッケージや宣伝にも力を入れ、精巧なパッケージボックスを制作したり、アニメ雑誌の連載コラムでも宣伝を欠かしませんでした。さらに1985年からは、模型ファンが自身の作品を披露できる、年々規模を拡大するイベント「ワンダーフェスティバル」を開催。これによりゼネラルプロダクツの名声は高まっていきました。

ゼネラルプロダクツがリリースしたガレージキット商品「1/200 全領域要撃/支援レディ エリアル「ARIEL」重装備タイプ」 Image credit:Aucfree


1985年~1991年に東京都立産業貿易センターで開催されたワンダーフェスティバルは、まだ商業的な色彩がそれほど強くありませんでした。 Image credit:ニコニコニュースORIGINAL

海洋堂はゼネラルプロダクツの優れた宣伝・商業手腕を評価しつつも、作り手としての魂では負けていませんでした。そもそも海洋堂こそが、川口哲也氏による画期的なGK製法をいち早く見出した企業だったのです。1984年、海洋堂はガレージキットの製造・販売事業を集約し、模型店からメーカーへと本格的に転身。山口勝久、BOME、松村しのぶといった優秀な造形師を次々と迎え入れ、モデルの品質には絶対の自信を持っていました。同時に、東宝怪獣映画や円谷プロのウルトラマンシリーズ、サンライズ作品など多岐にわたるライセンスを積極的に取得。『MUSEUM』シリーズ(動物)や『ROBOT MUSEUM』シリーズ(ロボット)といったGK商品を展開し、さらに1988年には塗装済み完成品の先駆けとして、『北斗の拳』のフィギュアを数々リリースしました。

初期の海洋堂GK商品は、段ボール箱に自社ロゴのステッカーを貼っただけの簡素なもので、小さな商品名でしか識別できませんでした。 Image credit:メルカリ


ゼネラルプロダクツに刺激を受け、パッケージデザインも次第に商品らしい体裁が整えられていきました。 Image credit:Aucfree

一方、ライバルであったゼネラルプロダクツは、80年代後半になるとライセンス交渉やワンダーフェスティバルの運営のため東京へ赴く機会が増え、拠点を大阪から東京へ移転します。しかし、移転後は人材が後に設立されたアニメ制作会社GAINAXに集中したことや、企画・発行した雑誌『サイバーコミックス』が失敗に終わるなどの問題が重なり、1992年に店舗を閉店。アニメ制作会社GAINAXとしての活動に完全に軸足を移すことになります。こうして約10年にわたる競争関係に終止符が打たれましたが、ワンダーフェスティバル開催という大役はどうなるのでしょうか?その答えは一つしかありませんでした。模型に対して最も熱い情熱を持つ、かつての商業的ライバル「海洋堂」です。

Image credit:ニコニコニュースORIGINAL



模型や玩具への愛こそが最大の原動力。重責を引き受けることに迷いはなかった
まるで少年漫画のような熱い展開に、海洋堂自身も当初は予想だにしていませんでした。彼らは一介の模型メーカーに過ぎず、イベント運営のノウハウは全くありません。たとえ引き受ける勇気があっても、同業他社からの嫉妬を招きかねない……。この重責をどうやって引き継げばよいのでしょうか?しかし、彼らはすぐに白羽の矢が立った理由を理解します。ワンダーフェスティバルとは、「採算よりも情熱がはるかに優先される」イベントであり、参加者の大部分は、模型への愛を原動力に、自身の作品を披露し、技術を共有するために集まるのであって、儲けるためではなかったのです。これこそ、海洋堂が創業以来掲げてきた企業理念「創るたのしみを、すべての人に」と完全に一致していました。

その後も岡田斗司夫氏と海洋堂は良好な関係を維持。岡田氏は海洋堂を現代アーティストの村上隆氏に紹介してコラボレーションを実現させたほか、宮脇修一専務もたびたび岡田氏の番組に出演しています。 Image credit:岡田斗司夫


GAINAXが1995年に制作したTVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』は社会現象を巻き起こすほどの大ブームとなり、海洋堂が運営するワンダーフェスティバルの急成長を後押ししました。 Image credit:株式会社カラー

宮脇修一氏自身も一人の模型好きとして、模型ファンの祭典であるワンダーフェスティバルを愛していました。多くの困難や反発があったにもかかわらず、彼は海洋堂ならではのやり方でこのイベントを引き継ぐことを決意します。海洋堂の熱意は版権元の信頼を勝ち取り、クリエイターにとって極めて重要な「当日版権制度」が今日まで続く礎を築きました。宮脇氏はかつて、「海洋堂が企業らしくない企業だからこそ、この奇跡は成し遂げられた」と語っています。

GENERAL PRODUCTS時代から続く「当日版権制度」は、ワンフェスに参加する原型師や模型ファンが安心して活動できると同時に、版権元の権利も守るための仕組みです。ワンフェス主催者が参加ディーラーからの申請を取りまとめ、一括で版権元に許諾を申請。許諾を得たディーラーは「イベント開催期間中・会場内限定」という条件で作品を合法的に販売することができます。これは、主催者に対する版権元の信頼があってこそ成り立つ制度なのです。

「当日版権制度」のルール説明。 Image credit:Wonder Festival

今やワンダーフェスティバルは、かつての小規模な同好の集まりとは比べ物にならない規模にまで成長しました。年に2回、幕張メッセの国際展示場1~8ホール(総面積54,000平方メートル)を貸し切って開催され、100社近い模型・玩具関連企業が出展。さらに1,000を超えるディーラーがブースを構え、原型師たちが自らの作品を展示・販売し、交流する場となっています。会場には数万人ものファンが詰めかける一大イベントです。

近年のワンダーフェスティバルの会場は、常に多くの来場者で賑わいます。 Image credit:KAI-YOU.net

ワンフェスに参加する企業ブースが増えた現在でも、海洋堂はイベントを引き継いだ当初の理念を貫いています。企業ブースは1ホールに集約され、ディーラーブースとは明確に分けられており、あくまで主役は数多くの原型師たちが出展するディーラーブースであるという姿勢を崩していません。コロナ禍で3度にわたり開催中止を余儀なくされた際も、オンラインでイベントを積極的に開催し、ディーラーたちに作品を展示・販売する機会を提供し続けました。

コロナ禍の影響で中止となった「ワンダーフェスティバル2021[秋]」はオンラインで開催されました。 Image credit:Wonder Festival



企業らしくない企業。利益よりも『作家性』を重んじる
この「原型師の情熱」を重んじる精神は、後にメーカーへと転身した海洋堂にも深く根付いています。宮脇修一氏は自社を「企業」と呼ぶよりも、むしろ「造形集団」と称することが多いです。海洋堂では、所属する原型師を社員としてではなく、一人ひとりが個性を持つクリエイターとして扱います。そのため、単に設定を再現する「原型師」ではなく、独自のスタイルを創造する「造形師」と呼ぶのです。宮脇親子が作品において最も重視するのは、それが利益を生むかどうかよりも、作品に宿る「作家性」です。その姿勢は、造形師たちへの絶大な信頼の表れでもあり、どんな作品であっても、たとえ食玩のような商品ですら、必ず造形師の名前を明記しています。さらに驚くべきことに、これらの優れた作品を生み出す造形師たちは、誰一人として専門学校などで技術を学んだ経験がないというのです。

Image credit:ものづくりタウンかどま

世界屈指の動物造形師と称される松村忍氏は、海洋堂で数えきれないほどのリアルな生物フィギュアを生み出してきました。彼は東京水産大学(現・東京海洋大学)の自然史系を卒業後、地球上の様々な生物を観察・記録し、環境保護団体にも参加した経歴を持ちます。その豊富な生物知識を活かし、1987年に造形師として海洋堂に入社しました。当時はまだ、模型玩具がアートとして認識されていない風潮があり、彼が手掛ける恐竜模型も、どれほど精巧であっても注目されることは稀でした。しかし海洋堂は、松村氏のような動物や恐竜を専門とする造形師に大きな可能性を見出し、他のジャンルで得た資金で彼の活動を支え続けました。

松村忍氏 Image credit:ほぼ日刊イトイ新聞

数年後、松村氏の努力は予想をはるかに超える形で実を結びます。彼が造形した恐竜は、福井県立恐竜博物館やアメリカ自然史博物館など、国内外の施設から注目を集め、模型玩具を博物館の展示品へと昇華させました。1993年に一大ブームを巻き起こしたハリウッド映画『ジュラシック・パーク』では、撮影時に海洋堂へ協力が要請されたほどです。劇中に登場する「病気のトリケラトプス」や「ティラノサウルスの足のクローズアップ」で使用されたプロップの原型は、何を隠そう松村氏が手掛けたものなのです。

当時『ジュラシック・パーク』で使用された「病気のトリケラトプス」や「ティラノサウルスの足のクローズアップ」などの原型は、現在海洋堂が運営する各ミュージアムに展示されています。 Image credit:宮脇修一 海洋堂センム


病気のトリケラトプスのシーン。 Image credit:Movieclips


ティラノサウルスの足のクローズアップ Image credit:CINEMA PRESS

1999年、海洋堂がフルタ製菓と共同で発売した食玩『チョコエッグ 日本の動物コレクション』は、松村氏が企画と原型製作に参加した商品です。その前例のない緻密な造形は日本中に食玩ブームを巻き起こし、メインターゲットではなかった大人たちまでもがコレクションに熱中しました。『日本の動物コレクション』はシリーズ史上最大のヒット商品となり、『チョコエッグ』は2001年の日経優秀製品・サービス賞など、数々の賞を受賞しました。
『チョコエッグ 日本の動物コレクション』第1弾 Image credit:フルタ製菓株式会社

しかしその後、フルタ製菓側による契約不履行が重なり、海洋堂は提訴に踏み切ります。海洋堂は全面勝訴を果たした後、フルタ製菓と袂を分かち、タカラ(現・タカラトミー)と組んで同系統の食玩「チョコQ」をリリース。ここでも引き続き、松村氏が高水準の動物フィギュアを制作しました。
「チョコQ」シリーズでリリースされた動物フィギュア。 Image credit:モノトーンの肖像画


このシリーズは発展を続け、現在の海洋堂で最も人気のあるカプセルトイ「カプセルQ」シリーズへと繋がっていきます。(画像:カプセルQミュージアム WILD RUSH 真・世界動物誌Ⅳ ~アジア・熱帯編~) Image credit:海洋堂


カプセルQミュージアム 恐竜発掘記9 最大・最強肉食恐竜編 Image credit:海洋堂


この食玩ブームで一躍名を馳せた海洋堂は、東京で展覧会を開催した大英博物館からのオファーを受け、公式認定の古代遺物フィギュア食玩シリーズを制作。こちらも非常に高い評価を獲得しました。 Image credit:海洋堂

海洋堂を代表するもう一人の造形師、BOME氏。彼もまた、もともとは海洋堂の店舗に入り浸っていた造形マニアの一人でした。アニメーターを志して上京したものの、アニメ制作会社の過酷な労働環境を目の当たりにし、1984年に大阪へ戻り、海洋堂の正社員となります。中国の工場でPVC塗装済み完成品が量産されるようになる2000年代以前から、BOME氏は積極的に美少女フィギュアの制作を手掛け、数々のアニメキャラクターやオリジナルキャラクターの傑作を生み出して一大ムーブメントを巻き起こし、当時、業界の第一人者と称されていました。1995年からは国内外のイベントに招待作家として参加するようになり、さらには岡田斗司夫氏の紹介を経て、現代アーティストの村上隆氏とタッグを組み、等身大美少女フィギュアの制作プロジェクトを始動させます。

海洋堂の造形師 BOME氏 Image credit:海洋堂


Image credit:海洋堂

BOME氏と村上隆氏による『Project Ko2』は、オタクカルチャーと現代アートを融合させた画期的な試みでした。抜群のプロポーションを誇る、露出度の高い等身大美少女スタチューを次々と発表し、オタクの抱く幻想と欲望をストレートに表現。発表当時はその過激さから大きな論争を巻き起こし、芸術的価値を疑問視する声もありましたが、近年ではアート作品として再評価が進んでいます。

左から『ナースKo2』、『3m Girl』、『Miss Ko2 Original (Project Ko2)』 Image credit:Gigazine


BOME氏は2000年前後には、ニューヨークのギャラリー「Feature, Inc.」や、パリのカルティえ現代美術財団が主催した企画展「un art populaire」にも招待され、自身の制作した美少女フィギュアを展示しました。 Image credit:海洋堂

近年の美少女フィギュアが価格高騰に見合わないクオリティであることに一石を投じるべく、海洋堂は2015年、BOME氏自らが原型制作から塗装までを手掛けた全高55cmの「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 式波・アスカ・ラングレー」を発表。「複製品ではない、本物のBOME作品」をコンセプトに掲げ、価格は80万円(税抜)と高額ながら、完全ハンドメイドのワンオフ作品であることを考えれば、決して法外な値段ではありません。
BOME氏が手ずから制作した「式波・アスカ・ラングレー」。 Image credit:海洋堂



情熱と危機、そして未来へ。宮脇修一専務が語る海洋堂の真実
こうした作家性を重んじる気風こそ、海洋堂が業界で常に新たなマイルストーンを打ち立ててきた原動力の一つでしょう。それはコレクターたちが海洋堂を愛してやまない理由であり、今日のホビー業界に不可欠な精神とも言えます。しかし、宮脇修一専務はインタビューで衝撃の事実を明かしました。「実は2020年の2月、海洋堂を畳もうと考えたんです。傲慢かもしれませんが、当時、自分以上に造形を理解し、知識と技術、そして情熱を持ってこの仕事を続けられる人間はいない、と思っていました。僕と海洋堂は一心同体。僕が海洋堂で、海洋堂が僕なんです」

この言葉には、海洋堂という看板に対する絶対的な自信と情熱、そして誰にも理解されないという孤独感が滲んでいます。宮脇専務はこれまで数多くの増資提案を受けてきましたが、そのほとんどが海洋堂の“らしさ”を維持できないものだったため、自ら断ってきました。しかし幸運にも、東京ディズニーランドの運営で知られる株式会社オリエンタルランドの元役員、佐藤哲郎氏と出会います。彼の仲介により、三井物産系のMSD企業投資株式会社が海洋堂の株式の9割を取得。従業員49名という小規模ながらも独自の道を歩んできた海洋堂は、解散の危機を免れたのです。

会社が買収され、佐藤氏が新社長に就任した形ですが、彼らは海洋堂を日本の重要な文化資産と捉えており、そのポテンシャルは現状をはるかに超えるものだと評価しています。宮脇専務も、今後も宮脇修・修一親子の権限は変わらないと明言し、より潤沢なリソースを得た新体制のもと、彼らの「造形精神」を貫いていくことを約束しました。

同世代である佐藤哲郎氏(左)と宮脇修一氏(右)は意気投合したという。 Image credit:高知新聞

未来の海洋堂は、我々にどのような驚きを見せてくれるのでしょうか。宮脇専務がその答えを示す日も、そう遠くはないはずです。