(画像:ソニー・ピクチャーズ)
(この記事は、物語の核心に触れる記述を含みます。未見の方はご注意ください)
ソニー・ピクチャーズが独自に展開するマーベル・ユニバースは、近年のハリウッド史上、最大級のジョークの一つと言えるだろう。彼らは『スパイダーマン』の脇役やヴィランたちを使い、スパイダーマンのいないスパイダーマン・ユニバースを無理やり創り出した。常に低予算と一流スターを組み合わせ、古臭い作風、手抜きな脚本、そして観客をバカにしているかのような特殊効果で構成された、見かけ倒しの駄作を次々と生み出している。『ヴェノム』シリーズや『モービウス』が繰り返し観客の嘲笑の的になっても、ソニーがMCU人気にあやかっているだけだと批判されても、このユニバースが『スパイダーマン』の映画化権を維持するための延命措置に過ぎないと揶揄されても、彼らは歩みを止めようとしない。
『マダム・ウェブ』もまた、これまでの作品から引き継いだスター俳優の起用と、ひどく時代遅れで安っぽい映像スタイルを踏襲している。しかし意外なことに、その脚本は手抜きではない。決して出来が良いと言っているわけではないが、「手抜き」と評するのは不公平だろう。『ヴェノム』や『モービウス』のような、「どうせ俺はダメなんだ」と開き直って好き放題やる純粋なポップコーン・ムービーとは違い、『マダム・ウェブ』には真剣に物語を語ろうという誠意が感じられる。事実、本作はソニーのユニバースの中で、私が個人的に心から好きになれた唯一の作品だ。多くの欠点があるのは確かだが、私の心に響く部分があったのだ。

(画像:ソニー・ピクチャーズ)
『マダム・ウェブ』のコンセプト自体は興味深い。スーパーヒーローを主人公にしながらも、あえて逆張りの発想で、従来のスーパーヒーロー映画にありがちな大掛かりなシーンを避けている。スラッシャーホラー映画の物語の型を巧みに取り入れ、ヒーローのオリジンストーリーを「より低予算」な小規模スリラーに仕立て上げたのは、非常に新鮮でポテンシャルの高い試みだ。これは大金をかけたくないソニーの懐事情にも優しく、スーパーヒーローというジャンルに新たな可能性を切り開くものでもあった。もし各要素がうまく機能していれば、ソニー・ユニバースはようやくまともな一品を世に送り出せたかもしれない。
『マダム・ウェブ』は予告編の段階から、濃厚な『ターミネーター』の雰囲気を漂わせていた。ダコタ・ジョンソンは本作のサラ・コナーであり、カイル・リースでもある。シドニー・スウィーニー、イザベラ・メルセド、セレステ・オコナーが演じる3人の「スパイダーガール」は、彼女が守るべきジョン・コナーだ。そして彼女たちを追うエゼキエルは、もちろんT-800でありスカイネットそのものである。マダム・ウェブの予知能力は、彼女を『ファイナル・デスティネーション』シリーズに毎回登場する災厄の予知者のようにも見せ、3人のスパイダーガールは、同じ惨劇の中で運命を共にする死者たちのようだ。
(画像:ソニー・ピクチャーズ)
こうした様々なジャンルの融合は、私が『マダム・ウェブ』を嫌いになれない、むしろかなり好きな理由だ。しかし、本作が本当に私の心を掴んだのは、実はバレンタインデーよりも母の日に公開するのにふさわしい作品だったという点にある。『マダム・ウェブ』の核は、実際には「母であること」についての映画なのだ(この点も『ターミネーター』のテーマと通じる)。娘たちが母親代わりの存在を探す物語であり、愛に満ちた、一風変わった家族の映画でもある。このような感情の描写は、『ヴェノム』や『モービウス』では絶対に見られないものであり、しかもそれは物語を補うための道具ではなく、正真正銘の主軸として描かれている。
「マダム・ウェブ」ことカサンドラは、生まれてすぐに母親を亡くし、大人になった今も他人との間に微妙な距離を置いている。他人の苦境を見過ごせない一方で、人と深く関わることを拒絶するという、大きな矛盾を心に抱えている。そんな彼女の人生に、あの3人の女性版ジョン・コナーたちが現れたことで、カサンドラの心の扉は少しずつ開かれていく。偶然にも、3人のスパイダーガールもそれぞれの家庭で親の温もりを得られずにいた。そこに年長者であり、自身も幼くして母を亡くしたカサンドラが守護者として現れたことで、彼女たちに欠けていた親の愛情が満たされていく。子供たちは本当に自分たちを守ってくれる母親を見つけ、母親を失った子供は人との繋がりを拒まなくなるのだ。
(画像:ソニー・ピクチャーズ)
スパイダーガールたちがカサンドラと出会ってすぐ、映画は長女が妹たちの面倒を見ているようでもあり、シングルマザーが3人の子供を育てているようでもある、特殊な関係性を急速に築き上げていく。ジュリアはすぐにカサンドラに感情移入し、親をがっかりさせるのを恐れる子供のように振る舞う。マティは問題ばかり起こす長女役で、アーニャは面倒事を避けたい優等生タイプだ。そしてカサンドラが救命処置を教え、代理母のような素振りを見せると、彼女たち3人の目には崇拝と信頼の光が輝く。3人のスパイダーガール同士の関係を見ても、彼女たちの化学反応は素晴らしいチームワークを生み出している。個性の違いが際立っているため口喧嘩も面白く、血の繋がりはないが、そのやり取りには姉妹のような親密さが感じられる。
劇中には効果的な伏線回収もいくつか用意されている。カサンドラが教えた救命処置が、最後には「娘たち」によって彼女自身を救うために使われること。カサンドラの母が娘の命のために自らを犠牲にしたように、カサンドラもまたスパイダーガールたちを守るために永続的な身体的ダメージを負うこと。そして、カサンドラが土壇場で離れた場所にいる者たちと繋がる能力に目覚め、彼女の「ウェブ」を通じて救いたい人々を繋ぐ場面は、人々を受け入れ、孤独に終止符を打つことの具現化だ。その瞬間、カサンドラは天命を果たし、キャラクターとしての成長を遂げた。ピーター・パーカーの誕生も、単なるファンサービス的なイースターエッグではなく、スパイダーガールたちとマダム・ウェブが新しい家族を築くことと対比される、合理的な象徴的表現となっている。

(画像:ソニー・ピクチャーズ)
しかし残念なことに、多くの見どころを含んでいるにもかかわらず、『マダム・ウェブ』はソニー・ユニバースの呪いから逃れることはできず、足を引っ張られている。本作もまた、『ヴェノム』シリーズや『モービウス』と同様、粗雑な編集、チープな美術デザイン、古臭くて陳腐なセリフ、そしてなぜかぎこちないカット割りに蝕まれているのだ。なぜソニーがこの低レベルで稚拙な美的センスに固執するのか理解できない。それが意図的なのか、それとも偶然の産物なのかすら定かではないが、いずれにせよ、彼らに改善する気がないことだけは確かだ。『マダム・ウェブ』はもっと優れた作品になれたはずだった。だが、私が「これは佳作かもしれない」と感じ始めるたびに、見えざる力がそれを完全なクソ映画寸前の崖っぷちまで引きずり戻してしまうのだ。
ただ、『マダム・ウェブ』には、美的センスにおいてこれまでの3作品の影から脱却した点が一つある。それは撮影だ。B級映画専門チャンネルのようなフィルターを笑う声もあるだろうが、よく見ると画面の色温度はかなり良く、『ヴェノム』や『モービウス』のような特徴のない、暗部のディテール処理がひどいレベルとは一線を画す。そして、クランベリーズの「ドリームス」をエンディング曲に選んだのは最高で、テーマにもぴったりだ。カサンドラの心境、未来を予知する能力、そしてスパイダーガールたちに希望を託す楽観的な姿勢を完璧に歌い上げている。「my life is changing everyday, in every possible way(私の人生は毎日、あらゆる形で変わっていく)」――カサンドラはまさに「あらゆる可能性(every possible way)」を予見したのだ。
だがカサンドラは、『マダム・ウェブ2』が順調に製作される可能性(possible way)を予見できただろうか? ソニー・ユニバースが作品全体のクオリティを改善しようとする未来を予見できただろうか? 疑わしいものだ。