【レビュー】『スクリーム7』:シリーズ史上「最もアイデアが枯渇」した一作。本編より場外乱闘の方がよっぽど面白い

(画像提供:パラマウント・ピクチャーズ)

『スクリーム』のファンとして、正直『スクリーム7』にはあまり期待していなかった。このシリーズはどの作品も製作クオリティが一貫して高く、ホラー映画の基準で言えばなおさらだ。常に面白い新アイデアを投入し、それを一定の水準まで引き上げる手腕は見事。ホラー映画が駄作続編を生みやすいジャンルであることは誰もが知っているが、このシリーズには今のところ「とんでもない駄作」は存在しない。しかし、それでもなお、『スクリーム7』の撮影前に起きたゴタゴタを考えると、完成品に期待する勇気はとても持てなかった。

『スクリーム7』が一度崩壊し、再び企画が動き出すまでの過程は、滑稽であり、どこか物悲しい。最初の火種は、5、6作目のヒロインの一人、メリッサ・バレラがパレスチナ支持の投稿を繰り返したことだ。製作会社のSpyglass Media Groupはこれを反ユダヤ主義的な偽情報の拡散とみなし、彼女を即刻解雇した。しかしSpyglassの計算外だったのは、劇中でバレラの妹を演じたジェナ・オルテガの義理堅さだ。スクリーンの姉が出ないなら、自分も出たくないと言い出したのだ。もともと姉妹の物語は三部作で完結するはずだったが、これで強制的に打ち切り。主役が全員いなくなって、一体何を撮るというのか。

(画像提供:パラマウント・ピクチャーズ)

最も馬鹿げているのは、7作目の監督を引き継いだ『ハッピー・デス・デイ』のクリストファー・ランドン監督が、すでに脚本を書き上げていたことだ。彼の心血は理由もなく全て水の泡となり、挙句の果てにはバレラを解雇した張本人だと誤解され、過激なファンから殺害予告まで受ける羽目に。心身ともに傷ついた彼は、監督を降板してしまった。この状況に至っても、Spyglassはバレラを呼び戻すプライドはなかった。だが、映画は作らなければならない。誰かを呼び戻す必要があった。最終的に、彼らはヒロインを呼び戻すことに成功した。ただし、それはバレラではなく、彼女より先にシリーズを去っていたネーヴ・キャンベルだった。

キャンベルが6作目に出演しなかったのは、Spyglassとパラマウントが彼女の満足する出演料を頑なに支払わなかったため、出演を拒否したからだ。ところが、いざ自分たちの尻に火がつくと、払うべき金は払わなければならなくなった。結局、大金を持って彼女に頭を下げ、助っ人として呼び戻すしかなかった。『スクリーム7』は、そんな馬鹿げた状況下で生まれたのだ。しかし、この火は本当に消し止められたのだろうか?この舞台裏のドタバタ劇より面白い本編を作るのは、至難の業だ。正直なところ、今のバージョンの7作目からは、何の創造性も新鮮さも感じられない。まるで、以前の脚本が全てパーになったために、急ごしらえで間に合わせた産物のように思える。(画像提供:パラマウント・ピクチャーズ)

ホラー映画のお約束をネタにするシリーズとして、7作目は『ハロウィン』の公式を非常に微妙な形で「逆手に取って」いる。つまり、年を重ねたファイナルガールが過保護になりすぎた結果、娘との親子関係が悪化するというものだ。厳密に言えば、この公式は『ターミネーター2』が元祖だが、『ハロウィン』のヒットによって、『悪魔のいけにえ -レザーフェイス・リターンズ-』といったホラー続編がこぞって模倣するようになった。『スクリーム7』もこの流れを避けられず採用しているが、そのロジックは少し違う。強く、厳しくなったファイナルガールが子供に護身術を叩き込むのではなく、自分の手で子供を守ろうとするあまり、子供に何も教えようとしない。それがかえって子供の怒りや不信感を生んでいるのだ。

しかし、7作目はこの公式を茶化すつもりはなく、むしろ驚くほどシリアスに描いている。だが、そのシリアスさも、シドニーの心境を繊細に描いているわけではない。ただ…動機は違えど、行き着く結論は似たり寄ったりだ。これが普通のホラー映画なら特に気にしないが、これはメタ要素満載の『スクリーム』だ。こんな処理の仕方では、シリーズの精神に反しているし、本来の強みを失っていると感じてしまう。7作目にメタ的なツッコミがないわけではない。実際、今作のテーマは、自らが築き上げた「犯人は常にファイナルガールの身近な人物」という公式を茶化すことだ。しかし、茶化すというよりは…単にその通りにやらないだけ。そのせいで、犯人特定の瞬間に何の驚きもない。犯行動機も残り物のように退屈で、過去作のギミックの使い回しだと言うことすら、これまでの作品に失礼なくらいだ。(画像提供:パラマウント・ピクチャーズ)

実は、この「お約束を破るものの、それを覆すような展開やどんでん返しもない」という現象は、6作目から顕著で、5作目にもその兆候はあった(5、6作目は単にお約束通りに進むだけの場面もあった)。しかし、7作目ではシリーズの生みの親であるケヴィン・ウィリアムソンが脚本・監督として復帰したにもかかわらず、この状況が改善されるどころか、さらに悪化しているとは思わなかった。5、6作目には少なくとも観客を翻弄する強力なサスペンスがあったが、7作目はそれすらも弱い。これは、『スクリーム』の風刺性がますます薄れ、シリアスな正統派スラッシャー映画に近づいているという傾向を示している。

だが、仮に正統派スラッシャー映画へと「進化」するにしても、ウィリアムソンはスラッシャー映画を撮れる監督ではない。彼のテンポの掴み方はひどく、追跡シーンの撮り方も退屈だ。これまでの6作品が毎回一流の雰囲気作りを見せてくれたのと比べると、7作目は「脚本家は脚本だけ書いていればいい」ということを証明しただけだ(ウィリアムソンは脚本家が本職で、監督を務めるのはこれが2度目)。彼には監督としての思考回路がなく、モードを切り替えられないのだ。7作目は舞台もかなり小規模で(おそらくシリーズ最小。予算のほとんどはキャンベルの出演料に消えたのだろう)、だからこそ巧みな演出で緊張感を生み出すべきだった。しかし、彼が思いついた手口は…BGMをもっと扇情的に、もっと大音量にして、腹をかっさばいて腸を引っ張り出すことだけ。ウェス・クレイヴンは、そんな大げさなことをしなくても、最高の鑑賞体験を提供してくれた。

(画像提供:パラマウント・ピクチャーズ)

一流のスラッシャーシーンを見せつつ、ハリウッド映画の様々な常套句をテーマ性豊かに茶化していたかつての『スクリーム』が本当に恋しい。1作目はホラー映画の生存法則を、2作目はあらゆるジャンルの続編の公式を、3作目は三部作の最終章が「物語の原点とリンクする」構造を好みすぎることを、4作目はリメイク作品が「原作の精神」を尊重しないために非難を浴びがちなことを、そして5作目は近年の「リブート続編」におけるベテランが新人を引き立てる風潮や、ネット上で増長する過激なファン現象を嘲笑した。ここ数年、ハリウッドでは他にも色々なことが起きているじゃないか。ポリティカル・コレクトネスは?ホラー映画がどんどんアート系に傾倒している現象は?触れたくないのか?思いつかなかったのか?それとも、『最終絶叫計画6』でも待つしかないのか?『スクリーム』の続編にここまで失望したのは初めてだ。

本作が、伝統的な意味での「ホラー映画駄作続編の殿堂」入りするほどひどいわけではないにしても、『スクリーム』シリーズ全体の中では間違いなく最低の一本だ。この傷ついた心をわずかに癒してくれたのは、マッケナ・グレイスとアイス・ナイン・キルズが歌うエンディング曲「Twisting The Knife」がかなり良かったことくらいだ。劇場の音響で聴くと特に最高だった。